🕯️「気のせい」なゆらぎを、お灸でそっと整えて。

数値や画像には映らない、でも確かにそこにある「気のせい」な揺らぎ。
東洋医学という、少し不思議でやさしいレンズを覗きながら、日々の澱(おり)をほどき、心を満たして歩んでいくための静かな備忘録です。

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【効率化の罠とお灸】AIや時短の「無菌室」に体温はあるか。誰でもできることの引き算と、人間の手作業。

日常の澱を解く
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ゲーム会社の新作発表会で、生成AIを使った映像表現が多用され、長年のファンから不安や反発の声が上がったというニュースを目にしました。

「開発にかかる膨大な時間を短縮し、より早く届けるため」という会社側の想いも分かります。
けれど、ファンがその作品に真に惚れ込んでいたのは、単なる速さや派手な演出ではなく、「人間が一貫して時間と情熱をかけて紡ぎ出してきた、手作りの味(体温)」だったからこそ、一抹の寂しさと不安を覚えたのでしょう。

この記事を読みながら、私は自分自身の日常、そしてこのブログ(とふろぐ)の作成プロセスについて、深く思いを巡らせていました。

実は、私自身もこうしてAIという現代のテクノロジーを相棒にし、日々ブログの執筆や推敲を重ねています。


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AIは「壁打ちの相棒」であって、作品の主ではない

私がAIを使うのは、決して思考や文章を丸投げしたいからではありません。

自分の中で浮かんでは消える曖昧なアイデアに対して、「プロの臨床家として、この伝え方はどうだろうか?」「読者の自律神経に寄り添えているだろうか?」と問いかけ、客観的な意見をもらう「最高の壁打ち相手」として協力してもらっているのです。

一人でPCに向かっていると、どうしても自分の言葉の軸がブレたり、感情に任せて説明が伝わりにくくなったりすることがあります。 人間同士の会話では時間も気遣いもかかってしまう作業を、ウェブメディアという形で美しく昇華させる上で、こうしたテクノロジーの活用は間違いなく「アリ」だと、私は胸を張って肯定したいと思っています。

誰でもできる作業や無駄なコストを引き算し、これまで一人では届かなかった領域へと表現の幅を広げていく。それは、人間がより本質的なクリエイティビティに集中するための、賢い知恵だからです。

だけど、「作品の温度感」まで渡してしまったらおしまいだ

けれど、どれだけ技術が進歩しても、絶対にAIに明け渡してはならない一線があります。

それは、「作品そのものが持つ、生身の温度感(手触り)」です。

効率や時短ばかりを追い求めて、思考の核や感情の機微、泥臭い葛藤といった「人間の体温」までAIに丸投げしてしまった瞬間、その作品からは血が引き、冷たい無菌室のような無機質さが漂い始めます。

読者やファンが求めているのは、完璧に整えられたツルツルしたデータではありません。 不器用でも、遠回りでも、「その人の人生や手触りが確かにそこに乗っている」という生身の質感なのです。

だからこそ、どこを効率化し、どこに絶対に譲れない「人間の手作りの味」を残すのか。その境界線を見極める美学こそが、これからの時代に問われているのだと感じます。

セルフケアも同じ。効率に丸投げせず、自分の手で包む

これは、私たちの身体やセルフケアの向き合い方とも全く同じです。

ネットの検索やデータに頼って「何分押せば効くのか」「どの数値が正解か」と効率(時短)ばかりを求め、機械的に身体を扱おうとするとき、私たちの自律神経は置き去りにされ、冷え切ってしまいます。

効率化できる作業は賢く手放せばいい。
だけど、自分の身体の強張りを感じ取り、自らの手のひらでそっと温もりを伝えるプロセスだけは、決して何物にも代えられません。

情報や計算のノイズで頭が過覚醒を起こしている夜こそ、画面を閉じ、冷えた足元や足先を自分の手のひらでそっと包み込んであげる。

そこに、ちいさなお灸の火をポッと灯す。

効率主義の無菌室から一歩外へ抜け出して、自分の手で灯した温もりに身を任せる。
その「無駄で愛おしい手作りの時間」の中にこそ、私たちの自律神経を深底から救う、本物の安心感が宿っているのです。

とふ

臨床20年。鍼灸師の目線で、世の中をふんわりと眺めています。
日常のあれこれも、結局は「全部、気のせい(気の状態)」。 そんな風に感じたこと、見つけたことを、気ままに書き留めておく備忘録です。

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