ゲーム会社の新作発表会で、生成AIを使った映像表現が多用され、長年のファンから不安や反発の声が上がったというニュースを目にしました。
「開発にかかる膨大な時間を短縮し、より早く届けるため」という会社側の想いも分かります。
けれど、ファンがその作品に真に惚れ込んでいたのは、単なる速さや派手な演出ではなく、「人間が一貫して時間と情熱をかけて紡ぎ出してきた、手作りの味(体温)」だったからこそ、一抹の寂しさと不安を覚えたのでしょう。
この記事を読みながら、私は自分自身の日常、そしてこのブログ(とふろぐ)の作成プロセスについて、深く思いを巡らせていました。
実は、私自身もこうしてAIという現代のテクノロジーを相棒にし、日々ブログの執筆や推敲を重ねています。
AIは「壁打ちの相棒」であって、作品の主ではない
私がAIを使うのは、決して思考や文章を丸投げしたいからではありません。
自分の中で浮かんでは消える曖昧なアイデアに対して、「プロの臨床家として、この伝え方はどうだろうか?」「読者の自律神経に寄り添えているだろうか?」と問いかけ、客観的な意見をもらう「最高の壁打ち相手」として協力してもらっているのです。
一人でPCに向かっていると、どうしても自分の言葉の軸がブレたり、感情に任せて説明が伝わりにくくなったりすることがあります。 人間同士の会話では時間も気遣いもかかってしまう作業を、ウェブメディアという形で美しく昇華させる上で、こうしたテクノロジーの活用は間違いなく「アリ」だと、私は胸を張って肯定したいと思っています。
誰でもできる作業や無駄なコストを引き算し、これまで一人では届かなかった領域へと表現の幅を広げていく。それは、人間がより本質的なクリエイティビティに集中するための、賢い知恵だからです。
だけど、「作品の温度感」まで渡してしまったらおしまいだ
けれど、どれだけ技術が進歩しても、絶対にAIに明け渡してはならない一線があります。
それは、「作品そのものが持つ、生身の温度感(手触り)」です。
効率や時短ばかりを追い求めて、思考の核や感情の機微、泥臭い葛藤といった「人間の体温」までAIに丸投げしてしまった瞬間、その作品からは血が引き、冷たい無菌室のような無機質さが漂い始めます。
読者やファンが求めているのは、完璧に整えられたツルツルしたデータではありません。 不器用でも、遠回りでも、「その人の人生や手触りが確かにそこに乗っている」という生身の質感なのです。
だからこそ、どこを効率化し、どこに絶対に譲れない「人間の手作りの味」を残すのか。その境界線を見極める美学こそが、これからの時代に問われているのだと感じます。
セルフケアも同じ。効率に丸投げせず、自分の手で包む
これは、私たちの身体やセルフケアの向き合い方とも全く同じです。
ネットの検索やデータに頼って「何分押せば効くのか」「どの数値が正解か」と効率(時短)ばかりを求め、機械的に身体を扱おうとするとき、私たちの自律神経は置き去りにされ、冷え切ってしまいます。
効率化できる作業は賢く手放せばいい。
だけど、自分の身体の強張りを感じ取り、自らの手のひらでそっと温もりを伝えるプロセスだけは、決して何物にも代えられません。
情報や計算のノイズで頭が過覚醒を起こしている夜こそ、画面を閉じ、冷えた足元や足先を自分の手のひらでそっと包み込んであげる。
そこに、ちいさなお灸の火をポッと灯す。
効率主義の無菌室から一歩外へ抜け出して、自分の手で灯した温もりに身を任せる。
その「無駄で愛おしい手作りの時間」の中にこそ、私たちの自律神経を深底から救う、本物の安心感が宿っているのです。
🕯️ 日々を養生する
色々あった一日だけど、今夜は画面を閉じて、自分をいつくしむ「庭師」の時間にしませんか。
臨床20年の私が、毎晩の布団に入る前に実践している、自律神経をふわりと整えるためのお灸の知恵をこちらに置いておきます。

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